7/9 福島に幸あれと祈る
電車・高速バス・高速バスと乗り継いで福島市への旅は長かった。日本海側から太平洋側のみならず日本列島の背骨まで出向くのにかかる時間は半端ではない。
福島市までの会津若松、二本松、福島市など界隈に表立った地震の傷跡は素人目には一見して確認できない。町は平静を保ってどこかの7月と同じく、軽装の若者が闊歩していた。
福島駅は山形新幹線と東北新幹線が分岐するところ。地理不案内の姉を先頭のつばさに乗せる。この後、後発の「やまびこ」は切り離され仙台へ。調べないとあらぬ方向へ行ってしまうこの広軌と凶器否狭軌のれ列車、我が北陸新幹線に配置される電車が思い浮かぶ。
新潟では、今頃パソコン教室で受講者とボランティアが一体となってキーボードをたたいていることだろう。そんなことは左に置かざるを得ない状況で福島へ。兄の病状はいかばかりか、憶測はアンダーだが気丈な兄貴のことだ、きっと笑いながら大仕事へ立ち向かう筈。気になるのは兄貴の連れ合い。老々介護で何ができるか、近くに子供たちがいないことでの心配は筆者と同じだ。
新潟県も広いが福島も横に広い。盆地のせいか気温は高く、陽射しが強く。梅雨などどこかへいってしまったかのようだ。
大学病院といば旧国立大学医学部付属病院を思い出すが、福島県は違った。県立医科大学が主役である。
駅二つも乗り継がなければたどりつけない中心部から遠距離の病院。バス代片道490円がその遠さを物語っていた。夜間のタクシー代は3,300円、まるで高田から直江津までに相当する。
納得の最後は屋上からラジコンヘリならぬ「ドクターヘリ」。新潟では確か1年前にスタートしたばかりだ。
本日のアップは宿泊先のホテルロビーから備え付けのデスクトップをお借りしてアップ。便利この上なし。
来福して兄貴を手術室へ送り出したあとは、息子のみを残し、我らは福島県が生んだ有名は作曲家「小関裕而」記念館へ。筆者一番に思い出したのが昭和39年「東京オリンピック行進曲」である。
広大なあのスタジアムに流れた行進曲にのって世界の選手が整然と行進したテレビシーンは忘れることはできない。その他軍歌や戦前の有名な唄は今でもカラオケの持ち唄となっている。
続く
ぐに下校しています。帰宅すると,宿題をばばからみっちりしこまれています。みんな夏休みの帰郷をたのしみにしています。よろしくお願いします。ブログがときどきお休みになると,こちらの方がドキドキしています。それでもあまりご無理をなさらないように。 福島の町は我が青春時代の思い出のまちです。
待ち焦がれる孫たちの夏休み、別れた時からあの姿は停止したままで
お話をお聞きすると相当にやんちゃになったようですね。「がまの亭」夏の陣、準備万端で待っております。鎌ヶ谷さんも一緒においでください。
お待ちしております。
横浜さんへ ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。兄貴の手術は正直驚きでした。いつかは誰もが通る道ですが身近なほど気持ちに堪えました。とりあえず手術は成功でほっとしていますがこれからが本番、
遠く離れた私には何もできませんが励ましと励ましだけはしっかりとせねばと心しています。横浜からも祈ってください。私も御身大事でいきます。コメントありがとうございました。