「車空いている?」と起き掛けに鶴否妻の一声。「どこへ行くんですか?」とは下男(筆者)の返事。
そして二声目は「何買いに行くんですか?」と常套句。
我が家に車は一台しかない。「稼がない車は不要」とは、苦し紛れの言い訳だが、その昔車は2台あった。息子たちは社会人になっていたが未だ親のすねかじりもいる。突然のヘルプ。止む無く軽を売る。妻の車故(くるまゆえと読む、じこではない)妻には気の毒なことをした。
退職を機に軽にでもしようかと迷ったが、軽は高価にして入手困難、今だにミニバンで我慢している。対物、自損事故には注意している二人だ。最近やたら多い高齢者の事故:・そして免許証返上のニュース。
我が実家は貧農、戦後は日本中がドコモ否どこも貧乏であった。特に農家の暮らし振りはないない尽くし、筆者のその後の生き方に大きな影響を与えたことは事実だ。辛いのは毎日の貧乏暮らし、心まで卑屈になっていった。
一方、日々毎日の我慢比べで育ったハングリー精神、この下にはもう落ちるところがないいう上昇志向が今の自分を作ったようだ。
「いつまでも あると思うな 親と金」「親の意見と 冷酒は 後で効く」は今は死語となったのだろうか。
「親の意見と茄子の花は千に一つの無駄もない」などの教訓は自分の代だけで終わりにしたいものと思う。我が親はもうこの世にはいない。
前段が長くなってしまった。花金に帰省予定の長男家族「甘エビを食べさせたい。」が妻の親心。これで筆者もゴチにありつけそうだ。
コタツの子守をする筆者の一日が始まったばかりである。
船村 徹氏逝く
「泣けた泣けた 堪えきれずに 泣けたっけ あの娘と別れた悲しさに 山のカケスも泣いていた リンゴのような 赤いほっぺたのよ 村はずれ~」
筆者の時代の生まれならだれもが知っている演歌歌手、春日八郎さんの唄、「別れの一本杉」である。さて、この唄誰作曲したか知る由もなかったが、戦後すさんだ日本人の多くの心に染みる歌を送り込んだ作曲家の一人船村 徹氏であった。
氏はごく最近までたくさんの名曲を世に出し、売れっ子歌手を育ててきた。
春日八郎さん、「お富さん」以来どの唄も歌える筆者だ。
この人が船村 徹氏。テレビでは何回となく、有名な演歌歌手を育成する作曲家として見る。穏やかながら、世に出す唄を自分が納得するまで、また歌い手の個性を引き出すことは定評があった。
若くして、北海道から日本を代表する演歌歌手が生まれた。北島三郎さん。
小気味のいいこぶし、間の取り方、右に出る人はいないと言われるほど演歌の数々を庶民に聞かせ、酔わせてくれた人である。その最高峰とも言える演歌の一つに「風説ながれ旅」がある。作曲家はもちろん船村 徹さん。北島さんは頑張っている。
このほか、村田英雄さんの「王将」、美空ひばりさんの「哀愁波止場」、細川たかしさんの「矢切の渡し」など名曲の数々は今でも私たちの心に息づいている。