越後の空などまるで知らずに暮らした学生時代の4年間、高田2年新潟2年、そして何を血迷ったか実家に近くない上越地区へ赴任が決まったのが昭和43年3月末。 子どもたちが待つ新卒の筆者が勤める学校へ着いたのは年度末も遅いかなり遅い時刻であった。
着いたはいいが筆者の住む宿はまだ決まっていなかった。荷物は学校宛てに送るようにとに指示、先生を喜んで迎えてくれない地域かと不安は暗い夜だけでなく明日からの生活に戸惑いを覚えたものであった。
能生駅近くには下宿だろうが貸し間だろうとあった筈だが、どうらや校長先生は学校の近くに新米を下宿させ、宿直や緊急駆けつけ要員にしたかったようだ。後で分かった話だが・・。
話は少し戻る。
長岡経由で直江津までは平野があり、農村地帯故心も広々と豊かになり、急がない鈍行列車の旅に浸っていたが、夕方になり、直江津から更に西に向かう頃、目にする景色は、日本海に沈む夕日、そして、日本海から即岸壁が立ち上がる西頸城の山々、筆者の目に記憶のない景色ばかり。
社会科の塵否地理にも疎い筆者、どこまで行ったら教師の卵を待つ学校があるのだろうかと不安は募るばかりであった。
当時北陸線は新しく線路を引く工事が進んでおり、日本海と山の間をくねくねと続く旧北陸線はスピードなど出せる代物ではなかった。
勤務する学校名に「浦」がついており、山育ちの筆者でもきっと海岸の近くだなくらいは感で分かった。
そのほか、谷浜、有間川、能生、浦本、等の駅名を見潮の匂いのする能生駅にて下車、当時の駅舎はほとんど海岸に近くあり、そしてそれは街の真ん中でもあった。
そこで今朝の朝刊朝日の「天声人語」に触れることに。
筆者能生町に住んで6年が過ぎた。当時は町村合併前であり、正式には能生町は西頸城郡能生町であった。
西頚城郡は富山と接する青海町、能生町、名立町で構成されており、この三町に挟まれた格好で糸魚川市があった。上越地域の方はご存知だろうが、直江津から富山に向かって海岸から川が内陸に向かって櫛の歯のように伸びており、その川の両岸に民家が立ち並んでいた。
この付近の漁港で灯台があったのは能生漁港ぐらいであったと記憶している。正式には能生港灯台と言うらしいが・・・・・。
能生町は当時の海岸線に沿って栄えた漁師町、入口は狭いが権現岳から西飛山まで奥が深く、その道中に小学校は中能生小、南能生小、上能生小そして高倉小とご多分に漏れず小さなへき地ばかりであった。
能生町は海岸線に沿って国道8号線が通っており、この国道に沿ってドライブインやスタンド、多くの店が並んでいた。とりわけ魚介類を売る店が昔は小泊港に隣接してあり、この国道は「ズワイカニ」を即売する店が軒を連ねて商売していた。大分後には国道の通行が妨げられるとして、大きな魚介類売り場が北陸線開通の為に掘り起こされた残土で「マリンドリーム能生」として生まれ変わり、たくさんのドライバーに利用されている。

11月1日は神奈川県の観音崎灯台が明治元年11月1日に起工したのを記念して制定されたもの。 灯台守と言えば人も通わぬ離れ小島か陸の孤島と言われる辺境の地での勤務、最近はGPSの普及で小型船でもこの恩恵に浴して灯台など不要だとして海上保安庁の調べによれば全国に3000余ある灯台はこの10年間で129基が廃止されたと言う。
これをみると思い出すのはあの唄である「おいら岬の灯台守よ 妻と二人で沖行く船の無事を祈って灯をかざす 灯をかざす」と確か主役は佐田啓二と高峰秀子であったかな・・・。今でも深く頭に染みついた唄と映画であっる。
能生の灯台はすぐ傍にあったが、筆者一度も中に入ることはなかった。神聖にして立ち入るべからずの感を強く持っていたからだろう。
西頸城郡は糸魚川市も含めて昔から一市三町と言われ、何故か名立を除いて行政区分が富山と隣接しており、上越管内でも上越でないせいか「糸西モンロー」と言われ別扱いされていたことを覚えている。
ともかく、海と山が近く、魚のおいしいところであった。ヒスイの里が傍にあったが糸西の学校に12年間務めたがヒスイ一つも拾うことはなかった。残念であった。